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筑後吉井の白壁の町並みのおはなし

2021/09/23

こんにちは。うきは観光みらいづくり公社 小田です。

これまでの「うきは通信」とは少しテイストが違いますが、筑後吉井の白壁のまちなみについてのおはなしをしたいと思います。

近年、町並みには古民家カフェや素敵なショップが点在して魅力あふれるエリアになってきました。

この町並みがどのように生まれたかを紹介したいと思います。

まず名前。「吉井」の名は「きれいな水が湧き出るところ」に由来していると言われています。

現在でもうきは市内では、蛇口をひねるときれいな天然水がでてきます。

【吉井のまちはいつごろできたのでしょうか?】

筑後吉井のまちの起こりは、今から約400年ほど前だと言われており、久留米と天領日田を結ぶ豊後街道の宿駅(宿場町より規模の小さいもの)としての機能がありました。

その頃の吉井の一般的な民家や商家は草葺きの簡素なつくりの建物だったと考えられており、400年前から建っている建物は吉井には現存しません。

現在の町並みの伝統的な建物はほとんどが明治期以降(築150年より新しい)のものとなります。

【吉井の町が活気づくきっかけとなった五人の庄屋のおはなし】

吉井の町の発展の話をするときに「五庄屋伝説」を抜きにお話しすることはできません。吉井のまちの北側には九州一の大河、筑後川があります。しかし、その水位が大地より低く農業用水には使えず、雨が少ない年には、飢饉などに悩まされていました。

 

約350年前、吉井周辺の五人の庄屋が中心となって、筑後川の上流から農業用水を引いてくる一大プロジェクトを実施し、吉井の町並みの周辺にひろがる荒れ果てた土地を豊かな農産地に生まれ変わらせました。

 

また、この水路の水の力を利用するため水車小屋が建てられました。この水車の力で櫨の実をろうそくに、菜種を油に、また、水がきれいなことも活かして小麦を挽いて製麺に、米を精米して酒造に、高価格で取引がなされる農産加工品をつくり、吉井の商人たちはそれら加工品を販売することで裕福になっていきました。

 

吉井の酒蔵はかつて数十軒ありましたが、吉井の町並みにあった酒蔵は、今はなくなってしまいました。(うきは市浮羽町には「いそのさわ」があります。)現在、町並みの観光拠点である観光会館土蔵は清酒「天国」(あまくに)の酒蔵跡を活用しています。

製麺業は今は様々な発展を遂げて現在に至ります。

栗木商店熊谷製麺所鳥志商店長尾製麺の4社が現在吉井町にあり、それぞれ個性豊かな商品を出されていて、最近では全国的に有名になっているものもあります。

【大火事の経験から生まれた白壁の町並み】

吉井商人はどんどんお金持ちになり、吉井周辺の土地、山林、原野も購入し、加工品の原料もこれまで以上に生産、発展をしていきます。

まちが活気づいてくると木造の建物が増え、密集して建てられるようになってきます。吉井の江戸期から明治初期にかけての建物といえば草葺屋根で、一度火がつくと、広い範囲に延焼して、明治初期までに3度も大きな火事が経験することになります。

この経験から、周りから火が延焼してきても絶対に燃えない家を目指して建てるようになりました。屋根は瓦を葺き、外壁をはじめ、軒裏までも漆喰で塗り固め、窓や店舗の開口部にも鉄製の扉を施し、完全な防火対策がなされた白壁土蔵の町並みがつくられました。

こうして生まれた土蔵造りの商家の多くは自ら所有する山林から材木を切り出して建設されたもので、住居と蔵を合わせた意味の「いぐらや」と呼ばれます。吉井商人たちは自分たちの財力を誇示するために競い合って建設したといわれています。大正、昭和の初めまで立派な町並みがつくられていきました。

町並みの観光スポットの一つ、居蔵(いぐら)の館などでは建物内部に入ると立派な梁と柱を見ることができます。

居蔵の館:櫨ろう(和ろうそく)などを生産し、財を成したといわれる松田家の分家

 

【日本の古い建物は時代遅れ!?】

ところが、戦後、高度経済成長期になると、多くの人が都会の近代的な建物にあこがれるようになり、伝統的な日本家屋に価値を見出さなくなりました。町の発展、商店街の活性化のために古い建物を隠し、新しい看板や壁で覆い、「見た目」だけ近代的!?な町並みなっていきました。こうした建物は「看板建築」と呼ばれていて、高度経済成長時に全国で見られました。

 

【古い町並みってそんなに価値があるの?】

昭和の終わりごろになると、全国的に伝統的な町並みを見直す動きが出てくるようなってきました。一部の専門家の間で吉井の町並み保存の動きがみられるようになりました。

平成4年には吉井町に町並み保存活動団体などが全国からあつまるイベント「全国町並みゼミ」を誘致。高度経済成長以降、ほとんど価値を見出すことができなかった吉井の町並みを全国から集まった大会参加者が絶賛する姿を見て住民の意識が少しずつ変わってきたと言われています。

その後、吉井では住民の町並み保存への機運が高まり、学術調査によっても文化的な価値が非常に高いことが示され、平成8年、国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)に選定。ちなみにこの重伝建地区は令和3年8月時点で126地区あります。

重伝建地区とは、よく耳にする「重要文化財」の面的(エリア全体を指定)なもので、国を挙げて町並み・景観保存を推進する地区です。

地区内にある建物で、外観を扱う際、建てられた当初の姿に戻す、または伝統的な外観につくりかえるなど町並みの価値を上げる行為に対して助成を受けることができます。

これまで保存地区内で数十年覆われていた壁が取り払われるなどして、伝統的町並みのあるべき姿に修復されたものが多数あります。

これまでの町並みの変化のお話を示す写真があります。

以下の4枚の写真はすべて同じアングルの写真です。

吉井町「白壁交流広場」西側の中町商店街

大正期(蒸気機関車が明治末期~昭和4年まで走っていました。)提供:うきは市教育委員会

 

昭和40年代の中町商店街 伝統的な建物を看板や壁で覆い始めました。提供:うきは市教育委員会

 

平成12年頃 伝統的な建物をすべて覆い、アーケードができていました。提供:うきは市教育委員会

 

平成13年~現在の中町商店街 文化財的にも価値のある元の姿(大正期の写真)に戻しました。

 

また建物に加えて、白壁通り、国道210号は電線の地中化もなされ、さらに景観的にも美しくなってきました。

 

【町並みのおはなしのおさらい】

・荒れた土地に水を引き農産物を生産、水の力で加工品をつくって吉井商人は大儲けする。

・過去に3回の町並みの大火事を経験して考案されたものが白壁土蔵造りの建物。

・戦後、近代的な建物へのあこがれで、日本古来からある町並みを否定し、看板や壁で覆うようになる

・全国町並みゼミの参加者が吉井の町並みを絶賛する姿を見て、地域住民の町並みへの見方が変わり、評価が高まる。

・平成に入ってから進められている町並み修復事業は今も続けられている。

・近年、町並みに素敵なショップが点在し、魅力あふれるエリアになっている。

 

おしゃれなお店が年々増えていますが、吉井らしさを損なうことなく、ますます魅力あふれるまちになっていってほしいですね。

このところ少しずつ涼しくなってきて町並み散策が気持ちいい季節になってきました。

今回紹介したような、防火対策がなされた伝統的建物や看板建築を見つけながら町並みマップ片手に散策してみるのはいかが?

ゆるっとてくてく筑後吉井

吉井マップ1906 (ukihalove.jp)

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