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大石堰・大石堰遺跡

大石堰・大石堰遺跡

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大石堰は、五人の庄屋の発願により、江戸時代に筑後川左岸に開削されました。これによって、肥沃な大地が生まれ、久留米有馬藩領の水田石高は増大しました。現在もその恩恵を受け、うきはの農産業を支えています。大石水道のほとりには、五庄屋の偉業を称えた三堰の碑(さんえんのひ)があり、「筑後川は諸志に著はれ実に天下の大水なり」と記されています。
■大石堰の歴史 ~五庄屋の灌漑工事の偉業~
江戸初期の浮羽地域は、筑後川の沿岸にありながら土地が高く水利が極めて不便な所で、水田にすることができませんでした。栗林次兵衛・本松平右衛門・山下助左衛門・重富平左衛門・猪山作之丞の五人の庄屋は、筑後川の水をこの大石地区から水路へ引き入れ送水して下流域を水田化しようと決心。寛文3年(1663年)9月にこの計画を久留米藩に提出しました。しかしながら、あまりの大事業であり、水路筋にあたる11カ村から「大石村から水路を開削して導水すれば、洪水時に導水路にあたる村は多大な被害を受ける」と反対運動にあいます。五人の庄屋は、自分たちの計画を貫く為の決意表明として誓詞血判を行い、「計画通り工事をしても損害はない。万一損害があれば、極刑に処されても異存無し」と主張し、同年12月、郡奉行や村人らに灌漑工事を認めさせました。
寛文4年(1664年)1月、藩営事業として工事が始められ3月中旬に開通。翌年寛文5年には溝幅が拡張され、続いて6年、7年と拡張工事が実施されました。更に灌漑面積を拡大するため、難工事の末、延宝2年(1674年)、大石堰が完成しました。その後、大石長野水道は農民の永年の苦労と努力に支えられ、今も下流域一帯、約30平方キロに及ぶ水田地帯を潤しています。

吉井町白壁の町並み

白壁の町並み

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うきは市の中心部の筑後吉井地区は、江戸時代に有馬藩の城下町久留米と日田天領を結ぶ豊後街道の宿場町として大いに賑わいました。江戸中期以降には精蝋、酒造、菜種の製油など農産物加工品の製造が盛んになり、「吉井銀(よしいがね)」と呼ばれる有力商人による金融活動などによって繁栄しました。
明治2年(1869年)の大火が契機となり、、草葺きの町屋に代わって瓦葺塗屋造が普及し、商家や地主は競って火災に耐えられ冨を誇示する豪勢な建築を建てるようになりました。経済の最盛期であった大正期に、ほぼ現在の町並みが形成されています。

現在でも、豊後街道の街路沿いに漆喰塗の重厚な土蔵造りの商家跡が連続する町並みと、災除川と南新川沿いに広がる屋敷群が約250軒ほど、ほぼ当時の姿のまま残されており、1996年には重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
本保存地区では、町屋や土蔵が連続する町並みと、豊かな緑に包まれた屋敷や社寺建築、さらに吉井の経済基盤を支えてきた河川や水路などが一体となって歴史的景観を形づくり、筑後地方の商業都市として、特色ある歴史的景観を今に伝えています。

<車でのお越しの方へ>
白壁の町並み散策へおでかけの際は、市営の無料駐車場をご利用ください。

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